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1288年〜1293年
(正応年間) |
寺の記録に「伏見院御字 正応年中之頃 長栄阿闍利(あじゃり。真言・天台で僧に与える職・位)草創也云々」 |
1596年〜1615年
(慶長年間) |
寺記によると法楽寺、吹上 雲龍寺それに「鞍馬山生福院多聞寺 比三ヶ寺慶長年中無住故寺院亡失」とある
※多聞寺あ、弘泉寺の前身で田之浦2丁目10−4付近にあったが火災で焼失。ために上のような記録になって残されている。 |
1603年
(慶長八) |
切支丹禁制の「定」(15か条)の古文書がある。 |
1659年
(万治二) |
法印増実により中興された。「法印」は僧の最高の位。 |
1683年
(天和三) |
「本寺 通生山般若院 天和3年9月宥盛…」の文章 |
1739年
(元文四) |
この年成立した『備陽国志』に「鷲羽山弘泉寺 田浦村。真言宗。本寺通生村神宮寺。正応年中創造といふ」とある |
1756年
(宝暦六) |
涅槃(ねはん)絵に関する「覚」を通生山寺般若寺から出している。これに円福寺、観音寺、大宝寺、弘泉寺の連署がある。
【涅槃絵】釈迦入減(釈迦の死没)の光景を描く。入滅の日とされる2月15日の涅槃会に掲げる。釈迦は頭を北に向け、右脇を下にして横たわり、周囲に菩薩から畜類にいたる衆生や、母摩耶夫人が描かれる。 |
1760年
(宝暦十) |
施主2名により宝篋印塔が立つ。 |
1787年
(天明七) |
「本堂・釣屋…右二字天明七年末歳焼失」。(書上) |
1822年
(文政五) |
三間半四面と裏に一間の庇のつく本堂の再建を願出した。 |
1823年
(文政六) |
「鷲羽山不動院弘泉寺 松平伊予守殿領」の文書。
【松平伊予守】
松平氏は江戸時代の家門で大名家。三河以来の松平、家康同母弟の久松松平、家康取り立ての松平のほか、越前・尾張・紀伊・水戸支流の松平、将軍家所縁の松平があり、それぞれ数家に分かれていた。ほかに前田・島津・伊達・細川・備前池田・毛利などの十数家の外様大名が「松平」と称する名誉を与えられていた。備前藩主で伊予守に任ぜられたものは、池田綱政(四代藩主、1638〜1714)、池田斉敏(七代藩主1811〜1842)。斉敏は松平
豊後守斉興の二男で、六代藩主池田済政の養嗣子となっている。したがって松平伊予守は池田斉敏では。 |
1827年
(文政十) |
棟札に「文政十龍集丁亥九月吉日 奉再建本堂一宇 三間四半面 広島青木浦 中川重右衛門利尋62歳 小工用人伜 重兵衛 その他十有余人。」龍集(りゅうしゅう)とは、龍星(木星)が一年に周回して戻ることから、一年、年と同じ。歳次、竜次。 |
1828年
(文政十一) |
荻野久兵衛(本家)の寄進で門(現薬医門)を再建。 |
1834年
(天保五) |
弘法大師一千年忌の法楽塔を建てる |
1839年
(天保十) |
児島霊場八十八ヵ所の第三十一番札所にさだめられた。 |
1840年
(天保十一) |
経蔵を洲浪繁吉などの寄付により建てた。 |
1906年
(明治三九) |
客殿と庫裏を再建。またこのころ児島百観音札所に。 |
1976年
(昭和五一) |
本堂屋根の修理。 |
1982年
(昭和五七) |
水子地蔵を建設した。 |
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